2014年2月26日水曜日

オリンピックの意義とは

オリンピック「日本代表選手」の気概を称える
北村隆司(きたむら・りゅうじ)
2014年2月24日


多くのドラマと感動を残した2014年ソチ、オリンピック(Sochi Olympic)も終った。これからパラリンピック(Paralympic)の開幕だが、先ずは日本を背負って活躍した選手に感謝の言葉を贈りたい。

JOCがある岸記念体育館
ソチ、オリンピックは競技以外にも多くの話題を呼んだが、竹田恒泰(たけだ・つねやす、JOCの竹田恒和[つねかず]会長の子息) (1)メダルは噛むな。品がない上に、メダルを屈辱することになる。(2)国歌『君が代』は聴くのではなく歌え。国歌も歌えないのは国際人として恥ずかしい。(3)日本には国歌斉唱時に胸に手を当てる文化はない。直立不動で歌うこと。(4)負けたのにヘラヘラと『楽しかった』はあり得ない」と言う『つぶやき』もその一つであった。

これに対しOlympic代表選手だからといって、日本を背負う必要はない」 http://blogos.com/article/79976/ と言うブログ記事を書いて反論した町村泰貴(まちむら・やすたか)北大教授「害悪を撒き散らす言論」とまで竹田発言を非難している。
(1)選手に「日の丸を背負った」だの、「国の代表」だのと押しつけるな。
(2)「メダルは噛むな」負けたのに「ヘラヘラと楽しむな」等の注文は余計なお世話だ。
(3)こんな雑音を気にして、選手が五輪を楽しめなかったら台無しだ。
(4)敗北を喫しても、楽しめたからよかったとニコニコ笑って全く問題ない。

この町村教授のブログ記事はネットで大きな反響を呼び、「いいね」9,200件以上にのぼり「よく言って下さいました。もっともっと言ってやって下さい」などと賛同の声が相次いだと言う。

その主張が保守と言うより「前世紀の遺物」と言った方が相応しい事が多い竹田発言が、「国歌斉唱」とか「直立不動」等と言えば、町村教授が「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」に襲われる事は理解できないことはないが、今回の竹田発言の主張は当たり前の事を言ったに過ぎない。現に、NBCが全米で放映した各種競技のメダル授与式を見ても、殆ど全ての選手が竹田発言で求めていた4条件を守っているだけでなく、インタビューを受けた選手は勝敗や国籍に関係なく、口を揃えて「祖国を代表できた名誉と幸運」を誇らしげに語っていた。

驚いたのは、オリンピック開催寸前まで、90%以上が無精髭のままでプレーしていたNHL(北米プロ・アイスホッケー・リーグ)の選手たちが、出身国の代表としてプレーする時点では、殆どが髭を剃り落としていた事だ。でも『全員』でなかったところを見ると、上からの強制されたのではなく自発的に髭を剃って祖国へ敬意を表したのに違いない。

オリンピックについて色々な意見が出ることは良い事だと思うが、町村教授の反論とそれを支持するネットの反応を見ると、『一部日本の常識が、世界の非常識』になりつつある事を実感する。色々文句はあっても私が誇ることに変わりない日本が、町村教授には『祖国を代表する事』が負担に思えるほど恥ずかしい行為なのだろうか?

町村教授が極端に嫌う『代表』だが、我々は無意識のうちに「自分自身」、「家族」、「会社」、「故郷」、「国」など常に何らかを代表して生活しており、それが国の伝統、文化、世相を作り上げて来たのだ。

2008年に起きた四川大地震で、日本から派遣された60人の救援隊が一人の生存者も発見出来ず落胆して帰国したのに対し、中国人母子の遺体収容に当たった救援隊員が直立不動の姿勢で遺体に敬礼する映像が流れると、中国全土で日本への賞賛と感謝の嵐が起こったが、これも救援隊員の行動が日本を代表していると思われたからである。下掲の動画をクリックして見て頂けば、万言を費やすまでもなくその誠意溢れる純粋な行動の持つ感動が強く伝わってくる。


東日本大震災で世界から賞賛を浴びた一般日本人の態度や行動も、海外から見れば日本を代表していると映るのは当然で、その場に居なかった私まで、日本人として誇りに思い、賞賛の恩恵に浴した。

町村教授が何と言おうとも、日本のユニフォームを着てオリンピックに出場する選手を世界が日本代表と見るのは当然で、選手がそれを自覚する事は負担ではなく、誇りとすべきである。

又、「選手が勝利にこだわり、オリンピックを楽しめなかったら台無しだ」とと言う反論にも賛成できない。(編者加筆:負けたら悔しいと思い、次の機会に取り戻そうという気概が大切で、楽しむことはお預けに。)

今のオリンピック運動を「参加する事に意義あり」と言ったクーベルタン男爵(Baron, Pierre de Coubertin)時代のアマチュアの祭典だと思っているとしたら、とんでもない勘違いで、今や勝敗を争ってこそのプロの一大祭典である。「より速く、より高く、より強く」を目標とするオリンピック競技は、順位を付けないと聞く日本の小学校の運動会と違い、選手の究極の目的は勝利にあり、その結果は名誉以上に選手の経済的将来に大きな影響を与える。

極貧国ジャマイカ出身、短距離走者のフセイン・ボルト(Usain Bolt:右の写真)は、オリンピックでの優勝を機にプーマ社(Puma)からの年間9億円強のスポンサー料を筆頭に、毎年巨額の収入を得るようになり、現役生活を続けながら20億円を超える純資産を活用して故国の各地に陸上競技の練習場を整備するなど、自分の幸運を社会に還元しているのもその一例だ。

アメリカンフットボールの伝説的な名コーチで偉大な教育者でもあったヴィンス・ロンバルデイ(Vince Lombardi:左の写真)は、数々の名言を通じて『負けじ魂』が人生の上で重要であることをを説いたが、その一つに努力をすればするほど勝利を獲得したくなくなるのが当たり前で、簡単に敗北を受け入れる人間には勝利は訪れない。勝利が全てでないと言うなら、スコアーをつける意味がないと断言している。

手段を問わぬ「勝利至上主義」は排斥すべきだが、オリンピック選手は国単位で選抜される以上、『』と『選手』は切っても切れない相互責任の関係で結ばれており、「国を代表するなどと言う下らぬ負担は忘れ、勝負にこだわらずオリンピックを楽しめ」と言う町村教授の『結果責任無用論』は通じない。この様な『戯言(ざれごと、たわむれごと)』が賛同されるのは、教授が属する日本の国立大学くらいなものであろう。

と言うのは、自らの結果責任を背負いながら身分保証もなしに競技に励む選手と異なり、日本の国立大学は、経常運営費の大半を国家財政に依存しながら、いったん配分された経費の使途については教育研究の水準や内容の如何にか拘らず、公権力の干渉も受けず、究極の『出資者』である納税者に対する説明責任も果たさずに教授の身分だけが保証される『無責任天国』だからである。

オリンピック選手の究極の目的が『勝利』であっても、それが全てではなく、誠実な態度と最後まで諦めない気概も求められる。

メダルを逃した浅田真央選手の場合、演技を終えた直後から全世界、特に現在日本と厳しい関係にある中国からまでもあきらめない五輪精神を示した」、「表彰台に上れなくても、あなたの精神に敬服しますなどの最高の賛辞が多数寄せられたと聞く。仮に浅田選手町村教授の反論に従い、ヘラヘラ笑いながら「勝てなかったけど、のびのびとソチ五輪に参加できて楽しかった」と言ったとしたら、この様な感動の嵐は起きなかったに違いない。



「結果を伴わない努力を、無駄と言う」と言ったのはチャーチル(Winston Churchill)だが、メダルに加えて「国を背負う」誇りと最後まで勝負を諦めない気概を持って正々堂々と闘い、世界に感動を与える結果を出した日本代表選手に勇気付けられた2014年ソチ、オリンピックであった。

2014年2月23日日曜日

マラソン走者、トシコ・デリアの伝記

フランク・リツキィ(Frank Litsky)の報告から抜粋
NYT紙、2014年2月20日

トシコ・デリア(Toshiko d’Elia)は、日本で生まれ育ち、荒廃した戦後の貧しい青春を生き抜いて渡米し、44歳から始めたマラソンで数々の栄冠と名声を獲得した。高齢で始めたスポーツで記録を更新した数少ない女性だったが、昨2月19日、ガン性の脳腫瘍で享年84歳で他界した。ニュー・ジャージー州、リッジウッド(Ridgewood)在住。


左から、夫のマンフレッド、トシコ、娘のエリカ:photo: Lonny Kalfus


岸本トシコは、昭和5年(1930)1月2日、京都で生まれた。敗戦の昭和20年、15歳だったトシコは荒廃した焦土で衣食住いずれも不足で空腹続きの青春を、「もし鳥のように羽根があったら飛んで逃げ出したい」ような夢を見ながら生き延びていた。ふとしたことで、ローマン・カソリックの尼僧院で通訳の仕事をしていた時、唖の若者が梯子から落ち、その痛みに堪え兼ねて悲鳴を上げた。それを見て、トシコは唖が声を出したことに打たれ、唖の人々に発声を教える仕事をしたいと思い立った。

トシコは、津田女子大で聾唖者のための特別教育を学び、フルブライト奨学金を獲得してシラキュース大学(Syracuse University)へ留学し、視聴学の修士学位を取得して卒業した。結婚し、娘のエリカ(Erica)が生まれたのはその頃で、夫が去ったのはその直後であった。

トシコは、一旦帰国したが、再渡米してホワイト・プレインズ(White Plains)のニューヨーク・スクール聾唖部門(the New York School for the Deaf)で教鞭をとっていた。トシコは、その頃出会ったマンフレッド・デリア(Manfred d’Elia:上の写真左 )と意気投合し再婚した。
二人は登山に熱中し、アメリカ中の山々を始めとし、富士山、イランのダマヴァンド山(Damavand)、スイスのマッターホーン(Matterhorn)、などを次々と征服した。一度スイスのモンテ・ロサ(Monte Rosa)に登る時、足を滑らせて割れ目に転落した。幸い同行者に救われ、再び登り続けて登頂に成功した、というエピソードも残っている。

マンフレッド・デリアはクラシック・ピアニストでピアノ教師の傍ら、彼自身資格充分の走者で、またニュージャージー州の文化財保護運動家であり、ハイキング・グループや、北部ニュージャージー州オペラ・ソサイエティ(the Opera Society of Northern New Jersey)の創設者でもあった。彼は2000年に亡くなった。

トシコマンフレッドが毎朝5時に起きて2キロ近く走っていたのは、登山に備えての訓練であった。その時点では、二人ともマラソンに参加するつもりは全く無かった。

マラソンに参加したのは偶然のきっかけだったのである。それには、娘のエリカ(上の写真右)が一役買っていた。エリカは当時リッジウッド高校(The Ridgewood High School)の陸上競技女子部のキャプテンで、春季の長距離レースの準備をしていた。その高校生たちの競技に母親のトシコを走らせてしまったのである。結果はエリカが1位、トシコが3位でゴールインした。

トシコが初めてマラソンに参加したのは1976年、凍てつく道路に雪が降りしきるニュージャージー州であった。彼女はコースの折り返し地点まで走って止めるつもりで、夫の友人が迎えにくるのを待っていたが一向に現れなかったのでレースを続けることにした。ゴールに入った記録は、待ち時間も含めて3時間25分で、充分ボストン・マラソンに参加する資格が取れた。翌1977年まで、トシコは準備訓練として週に150キロ走り、40歳以上部門のレースを含め、数々の長距離レース競技で優勝した。

トシコは、体重45.4キロ、身長153センチという小柄だったが、彼女の脚力はずば抜け、耐久力が優れていた。49歳でボストン・マラソンを完走した時の記録は2時間58分11秒、そして間もなく子宮頚管部にガンが発見された。8ヶ月後、彼女は練習を再開し、更に8ヶ月後、スコットランドで開催された世界マスターズ・チャンピオンシップに挑戦し、2時間57分20秒という50台以上の女性部門では初めて、3時間を切る記録を作った。

長年、トシコは年令別グループで数々の記録を破ってきた。ニューヨーク・ロード・ランナーズ(New York Road Runners)のメリー・ウイッテンバーグ会長(Mary Wittenberg)は、トシコを『我が走行路の女王(our queen of the roads)』と評して絶賛した。

娘のエリカの談話によると、トシコは78歳の時に心臓の手術を受けたが、走ることを諦めずに続けていた。また、毎朝7時にプールで、2キロ近く泳ぎ、45分程水中で走っていた。その後ヨガのクラスへ行ってから帰宅し、昼食を摂って一眠りし、午後は5キロから8キロ走るのが日課だった。この日課は、昨年の暮れに脳腫瘍が診断されるまで欠かさなかった、とのことだ。


トシコは、娘のエリカ、そして孫3人、養女が2人、養孫4人の遺族を残して逝った。

2014年2月21日金曜日

アメリカ、日本の右傾に憂慮

日本政界の国粋主義的な発言、アメリカに警鐘を
ーチン・ファクラーフェブ(Martin Facklerfeb)報告
2014年2月19日付け、ニューヨークタイムズ紙から完訳

安倍首相
 東京発:安倍晋三内閣の内部から、数件の挑発的な国粋主義的な発言が公表された。その内容に、アメリカを批判する内容も含まれていたので、日本をアジア諸国との政情のクサビと考えていたオバマ内閣の信頼感に一抹の不安を与える材料となっている。

オバマ大統領
在日アメリカ大使館は、今までのところ安倍内閣の経済復活や米軍駐留に協力的だったことで中国との国力バランスの均衡を保てると満足していたが、最近の国粋発言問題が日米関係の決裂の導火線となることをを恐れる見解が生じてきた。問題の『発言』とは、第二次大戦における日本の戦争行為を書き換えたいというもので、それによると、特に中国と南朝鮮など日本の隣国との関係に及び、戦時中の日本が右翼化し、愛国心を高揚させた時代を取り戻そう、という趣旨である。

衛藤晟一
アメリカを直接批判した発言の一つには、安倍内閣の首相補佐官、衛藤晟一(えとう・せいいち)が、YouTubeビデオ上で公開し、安倍首相の靖国参拝に「失望した」オバマ大統領を批判し、「失望したのは我々の方だ」と発言し更に
「アメリカは、同盟関係にある日本を、何で大事にしないのか」と付け加えた一件である。言うまでもないが、靖国神社には国のために戦死した霊と共に、戦犯も祀られていることで、大戦中日本軍から抑圧されていた南朝鮮や中国から怒りの声が上がっていた。

衛藤氏のビデオ上での発言で、日米外交上の支障になることを怖れた内閣代表は、同氏に問題のYouTubeを停止取り下げるよう勧告した。

日本政府内部の紛争が元で、ワシントン政府とアジアで最も近い同盟国日本の絆が切れるかも知れない危機状態は、安倍氏にとって、ヨーロッパにおける第一次大戦前夜の様相を示している。歴史や国境問題に関する論争は、日本と朝鮮を説得し、泰然と構えている中国との均衡を保たせるべく尽くした努力にも拘らず、反感を持たせる結果となり、問題を更に複雑にしている。

アメリカ政府の関係者たちは、安倍氏が、同じくアメリカにとって重要な同盟国である南朝鮮との親交を深める努力を怠っていることに焦燥している。それは、妥当な実践項目の内に、過去を振り返って日本帝国が犯した侵略行為を謝罪することが含まれている。また、アメリカ政府の関係者たちは、中国が日本人を「恥知らずの軍国主義者」と定義付けていることに安倍氏が対抗し、日本のアジアにおける地位を固めようとしていることに怖れを感じている。

政治評論家たちは、アメリカ大使館が、安倍氏の靖国参詣を公式に批判することを考慮するであろう、と推測している。

その方面では、日本政府官僚たちは、目下中国の統制下にある尖閣島問題の解決に、アメリカが日本を支持するという明確な姿勢を見せていないことに憤激しているようだ。彼らはまた、オバマ政権が沖縄の基地移転問題で、安倍氏が政治上困難な状況だったにも拘らず、ワシントン政府に都合のよい方向に進めた努力を高く評価してくれないことに不満を持っている。

日米関係のエキスパート、東京慶応大学の細谷雄一(ほそや・ゆういち)は、「安倍首相は、政策的に同盟国との関係を強化することに払った努力が感謝されていないことに焦りを感じています」と語る。

百田尚樹
安倍閣僚内からの最も強烈な表明は、極保守的な小説家、百田尚樹(ひゃくた・なおき)から出た。百田氏は、安倍首相から指名され、NHK放送局の経営委員となった人物である。彼は公開の演説の中で、「戦後の東京裁判は、アメリカ軍の空襲で東京や広島、長崎の原爆投下で大量虐殺をしたことを隠蔽するために行われた」と表明した。アメリカ大使館はそれについて、「不合理な糾弾だ」と反応している。

百田氏の表明は、先月NHK経営委員に就任した数日後のことであった。上記の表明の他に、「日本軍だけが兵隊に慰安婦を斡旋したというのは不公平である。アメリカの軍隊でも同じことをしている。歴史家に言わせると、日本には特別な淫売宿を軍隊用に提供するという習慣があり、何十万人という外国の婦人を強制的にかき集めたことは、他の国で兵隊たちが占領地の淫売宿に通うという事情とは違う、というのはおかしい」との発言もし、ワシントン政府を呆れさせた。

日本政府のオバマ政権に対する不満は、安倍氏が首相に選ばれた直後、大統領との会見を計画した時、1ヵ月先まで待つよう言われた昨年から引き続いている。最近では、オバマ大統領が日本へ4月に訪問する際、たった一晩しか滞在できないと知り落胆した。

消息通によると、こうした不満が積もり上記の発言となって吹き出したのであろうと解釈している。

東京拓殖大学、国際関係のエキスパート、川上たかし教授は、「私の知る限り、以上の発言は日米関係が最も危険な状態になった事件の一つです。今、日本は孤立している感じで、中には、アメリカに頼らず日本は独り立ちすべき時がきたと考え始めている」と分析している。

評論家たちは、問題の発言をした人々は、どちらかと言えば二流の人物で、安倍内閣の閣僚ではない。だが、大多数の日本人は、戦後5万人のアメリカ軍が駐留して日本の安全を確保していることで、圧倒的にアメリカに好意を持っている、と指摘している。

評論家たちは同時に、日米双方ともに焦燥を感じているのは現実である、とも指摘する。アメリカでは安倍氏に対して一部では、前回首相だった時の重要課題、つまり太平洋憲章と、当時国の誇りの名の下で行われた戦時下の圧政を、控え目な規模で復活させるのではないかという不安を感じ、やや混乱した印象を受けている。

スタンフォード大学、ショーエンスタイン、アジア・太平洋調査センター(the Shorenstein Asia-Pacific Research Center at Stanford University)のダニエル・スナイダー副所長(Daniel C. Sneider)は、「思うに、靖国参詣がアメリカの安倍に対する態度の転換期だったようです。あの参詣は安倍が、戦後の日本に愛国心を復活させる意志を持っていたことをアメリカに再認識させました」と分析する。靖国参詣、それとアメリカ批判、これらが革新声明という現在の風潮を解き放してしまったようだ。

アメリカの政治評論家や閣僚たちは、安倍氏が自身やその閣僚を国粋的声明から充分な距離をおいておかなかった誤りに気付いていなかった。実際のところ、安倍内閣の代表者は、衛藤氏の「アメリカに失望」との失言に関してビデオの撤去を要請したにも拘らず、発言者を訓戒することなく、「個人的な考えだった」と断って済ませてしまった。

去る水曜日、東京で安倍首相に会見した訪日中のアメリカ国会議員たちは、改革声明や安倍氏の靖国訪問を警告したが、これはむしろ中国にとって有利だったようだ。議員たちは警告に添え、日米関係は基本的には安泰だからこうした失言問題は容易に修復できる、と結んだ。


上記議員の一人、ウイスコンシン州選出の共和党、ジム・センセンブレナー(Jim Sensenbrenner)代表議員は、「仲の良い友人の間でも、気まずい発言や誤った失言をすることもあるが、何とかうまくいくものだ。大切なのは、我々は経済的に活発で強力な日本が中国に対抗でき、均衡を保てる立場にあることだ」と楽観的だった。

2014年2月15日土曜日

シャーリー・テンプル、変転の生涯

Shirley Temple Black; 1938〜2014

シャーリー・テンプル(Shirley Temple Black)は1928年(昭和3年)4月23日生まれ。3歳で子役映画スターとして銀幕に登場し、唱えて、踊れて、演技ができる、という三拍子揃った才能を十二分に発揮し、1930年代、人気女優のトップに立ち続けた。『銀幕』とは死語になったが当時はシルバー・スクリーン(silver screen)の直訳で、まだカラー映画がなかった時代である。サイレント映画からトーキーになり、唱って踊れるミュージカルが売り物のテンプルとっては正に水を得た魚なのであった。(下のビデオは、1935年作品、『われらの少女[Our Little Girl]』1時間5分)



昭和7年から日米開戦の直前、昭和15年頃まで、日本にも続々と輸入され、全国的な人気を獲得した。

1939年、カラー映画が徐々に勃興し、テンプル映画も負けずにカラー映画に転向した。一方で、ディズニーの長編アニメーション『白雪姫(Snow White)』、南北戦争を背景にした『風と共に去りぬ(Gone With the Wind)』、ジュディ・ガーランドの『オズの魔法使い(The Wizard of OZ)』などが、次々と評判になり、テンプル物は次第に影が薄くなっていった。


左から:1932年子役全盛時代;1950年引退;1969年政界入り;1990年代各界の役員;2013年受賞多数

テンプル自身も10代となり、往年のあどけなさから抜け出し始め、作品の本数も次第に減り、1950年、22歳で映画界から引退してしまった。その後1958年、芸能界に返り咲き、テレビ番組の司会やゲストにも時々登場していた。

テンプルの中年時代は政界に関与し共和党に属し、ニクソン大統領に指名され国連総会(United Nations General Assembly)の代表委員となり(1969)、アメリカ大使としてアフリカ、ガーナ(Ghana)の米大使館に派遣され(1974~1976)、在任中外交儀礼の長を務め、後に、プラハ市(Plague)、チェコスロバキアの米大使館に転勤し(1989~1992)、業務を遂行していた。

また、ウォルト・ディズニー社(The Walt Disney Company)デル・モンテ食品会社(Del Monte Foods)、その他の企業や、ユネスコ(UNESCO)、ナショナル野生動物保護連盟(National Wildlife Federation)の役員も務めていた。

数々の受賞の内には、ケネディ・センター(Kennedy Center Honors)名誉賞、2005年、スクリーン俳優連盟の生涯達成賞(Screen Actors Guild Life Achievement Award)、などが含まれている。


去る2月10日、85歳で他界した。死因は自然死となっている。遺族には、3人の子達と孫や曾孫がいる。冥福を祈る。     編集:高橋 経

2014年2月9日日曜日

幻の歌姫、イマ・スマック

先日、ハワイのアラン灰田さんから、イマ・スマック:伝説、太陽の処女(Yma Sumac: “Legend of the Sun Virgin”)』を贈っていただき唖然とした。今は、すっかり忘れ去っていたイマ・スマックの名が、鮮明な記憶として蘇ってきたからである。

イマ・スマック;1922〜2008
1950年代の半ば、彗星の如く現れたイマ・スマックの独特な美声は、主にラジオを通して忽ち一世を風靡した。何が独特だったかというと、その音域の広さが人並み外れていたからである。彼女の歌声は、バリトン的な低音からソプラノ的高音まで4オクターブ半から、時には5オクターブにも及んだ。

更に、イマ・スマックを神秘的にしていたのは、インカ女王の後裔という噂を背景にしていたことである。大昔に滅亡したインカ、それも王族の後裔となるといささか真偽を疑いたくなるが、彼女の美貌とカリスマ性からはそれなりの気品さえ感じられ、お姫様の真偽はともかく、世界の視聴者を熱狂させるに充分な人気を獲得した。

彗星の如く現れ、彗星の如く消え去ったイマ・スマックの歌声を60年振りで耳にし感慨を新たにした。彼女の存在をご存知ない方々にも是非観賞していただきたい。(下掲『伝説、太陽の処女』は30分近くの長編だが、他の短い曲もYouTubeに用意されているからお愉しみください。)

2014年2月2日日曜日

アップル社、過去30年の点描

アップル社、回顧30年の点描

今から30年前、1984年1月、アップル社(Apple, Inc.)のコンピューター、マッキントッシュ(Macintosh)が発売されるとカリフォルニア州クパチノ本社(Cupartino)で開かれた株主総会で発表された。

伝説的なアップル、新製品のテレビ・コマーシャル。1984年のスーパー・ボウル(Super Bowl)のゲーム放映中に流されたCMらしからぬ CMは、視聴者を驚かせた。ジョージ・オーウエル(George Owell)の小説『1984』の影響を受け、イメージが重なる。


スティーブ・ジョブス()とジョン・スカリィ(John Sculley)
当時は、大小企業の殆どは、まだ電気(または電子)タイプライターが全盛で、個人用(パーソナル)コンピューター(PC:パソコン)は普及していなかった。ごく一部の計算業務で、IBMのコンピューターを使い始めていた。このコンピューターのワープロ機能が認められるや、次の二、三年の間に、オフィスからタイプライターを駆逐してしまった。利点は、誤字の訂正、編集、変更などをスクリーン上で行い、完全な文章になってから印刷することで、能率が上がり、ムダが省けるようになった。

初期のロゴ、1999年まで
オペレーション・システム(Disc Operation System: DOS)は、ビル・ケィツ(Bill Gates)マイクロソフト社(Microsoft)が開発し、IBMおよび、そのクローン機種のコンピューターに組み込まれ、その面ではほぼ独占してしまった。だが、アップル社のマッキントッシュでは、独自のオペレーション・システムを開発していた。それはIBMのシステムより合理化されていて、利用者にとって扱い易くできていた。皮肉なことに、それが却ってアップル社の市場開拓を妨げていた。つまり、IBM系の利用者たちは、マッキントッシュを『大人の玩具』と軽蔑していたのである。

1999年から現在までのロゴ
やがて、マッキントッシュ・システムの扱い易さは、グラフィックスの面で頭角を顕わしたのである。グラフィックスとは、写真の処理、イラスト、立体描写、各種フォント、デザイン、文書レイアウトなどを作成する分野のことだ。かくして、マッキントッシュは、デザイン分野の市場を確実に開拓していった。

その分野で遅れをとったIBM系のコンピューターが、失地挽回を目指して開発したのが『ウインドウズ(Windows)』で、グラフィックスの処理ができるようになった。だがこれはあくまでも従来のシステムを土台にしていたため、マッキントッシュの能力と比べると遥かに劣っていた。

1984年3月、本格的生産に入ったマッキントッシュ

アップル、iPhone 5
それでもコンピューター業界での市場シェアは、IBM系が大半を占め続けていた。

その市場シェアが逆転し、アップル社の独走態勢を決定的にしたのは、2000年代に入ってから、スマートフォン、アイフォン(iPhone®:スマホ:右の写真)やタブレット、アイパッド(iPad®)などを次々と発表し、その爆発的な人気以来である。1984年のマッキントッシュ発売以来、30年目の今日、アップル社は『世界で最も重要な企業の一つ』という評判を獲得した。

この功績は、何と言っても自宅のガレージで細々とコンピューター製作を始めた創立者、今は亡きスティーブ・ジョブス(Steve Jobs:左の写真)の弛まない創造力に負う所が大きい。

ジョブスの死後、かれの遺志を継いだ後継者が最近発表した高性能チップ『A7』を内臓したアイパッド・エア(The iPad Air)は、時代の最先端を行くタブレットである、とはアップル社の自賛する携帯用、驚異的な多機能をもつ最新製品だ。

 そのアップル社について、あまり知られていない面の点描

 創業者の主役、スティーブ・ジョブスの母は、ジョアン・シーブル(Joanne Schieble)、父はシリアからの留学生、アブダルファタァ・ジャンダリ(Abdulfattah Jandali)。二人がウイスコンシン大学の学生だった頃に恋仲となり、スティーブが生まれたが、1955年ジョブス家が養子として引き取った。

ニュートンとアップル
 アップル社は、スティーブ・ジョブス、スティーブ・ウォズニァク(Steve Wozniak)、ロナルド・ウエイン(Ronald Wayne)の三人により、1976年に創立。ウエインは、アップル社のロゴを考案し(左の図:ニュートンがアップルの落ちるのを見て万有引力を発見したという故事にちなんだ社名、このデザインは採用以前のもの)、共同経営の合意書を作成し、最初の機種アップル・ワン(Apple I)の使用説明書を作った。だがウエインは、負債を抱えていた会社の将来を危ぶみ、投資した10パーセントの出資金を、たった800ドルで譲り退社した。その時の800ドルは、今日のアップル社の価値に換算すると350億ドルに相当する。

 アップル社は『白』が好き
当初、スティーブ・ジョブスは、むしろ『淡い灰色(moon grey)』を好んだが、イギリス人のデザイナー、ジョニィ・アイヴ(Jony Ive右の写真)に説得されて『白』に傾いた。アイヴが『白』に魅了されたのはは、デザイン学生の頃からだったそうだ。

 パッケージングのこだわり
アップル社の製品はもとより、それを包装するパッケージングのデザイン制作には、計り知れない時間と知恵と労力を費やしている。完全な製品にふさわしい完全な包装を、というわけだ。確かに、そうした努力が、消費者に反映し、パッケージを開いて新製品を取り出す瞬間、神秘的な期待を持たせるという効果につながる。

 最初のアップル・ワン(The Apple I)、魔性な正札
最初のアップル・コンピューター、アップル・ワンの卸値が500ドル。スティーブ・ウォズニァクが、それに3分の1上乗せし、小売り価格を666.66ドルと割り出した。この数字がたまたま悪魔的な暗示をしていることが指摘されたが、同じキーが並んでいてタイプし易い、ということで収まった。

 商標『マッキントッシュ』の語源は果物のアップルから
この『マッキントッシュ(Macintosh)』は当初、内部だけのコード名で、アップル社員で新製品開発部門にいたジェフ・ラスキン(Jef Raskin)が、彼の好物だったリンゴの一種を命名した。たまたま、イギリスのレコード会社にアップル・レコード社が存在し、1963年に初期のビートルスのアルバム、『ビートルズお目見え(Meet The Beatles)』を発行し、そのLPレコードのラベルには、マッキントッシュが占めいた(右の写真)。発想が類似していたので、商標登録に抵触せぬよう、スペルを少々変えた。一時、ステイーブ・ジョブスが『バイスクル(Bycicle)』を押したが、『マッキントシッュ』が最終製品名として残った。今日では『マック(Mac)』で通っている。

 スティーブ・ウォズニァク(左の写真)は未だにアップル社員である。
1967年当時、アップル社の共同創始者の一人だった『ウォズ』は、1987年に正社員から退いた。でも彼は未だに人事帳簿上、アップル社員として記載され、毎年12万ドルの恩賜金を受け取っている。

 スティーブ・ジョブスの最期の言葉
膵臓ガンで死の床にいたスティーブが最期に遺した言葉は、「オー、ワオ。オー、ワオ。オー、ワオ(Oh wow. Oh wow. Oh wow)」だった。これはスティーブの妹、モナ・シンプソン(Mona Simpson)が、スティーブを見守る近親たちの間で目撃し、ニューヨーク・タイムズ紙に寄稿した彼女のスティーブ礼賛、弔文の一部にある。

 アップル社の出荷は、空輸のみで船便なし
理由は『迅速、安全』の二語に尽きる。特に中国で製造することが多いから、空輸だと米中間、15時間で届く。船便だとドックで待機する時間が永く、貴重な製品の安全が保証されていない。

 宣伝用の写真はコンピューターの制作ではない
こうしたウエブサイトや宣伝で見られるプロモーション用の写真は、コンピューターで作成したものではない。これらは、超高解像度の写真を拡大したものである。
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高橋 経以上、出典は news.com.au Wikipedia および  New York Timesから

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