2014年1月30日木曜日

フォーク歌手、ピート・シーガーの遺業

ピート・シーガー(Pete Seeger)はフォークソングの作詞、作曲、ギターやバンジョーを弾きながら唱う歌手として知られている。

   そのシーガーが、27日に94歳で亡くなった。彼を偉大な存在にしたのは、得意なフォークソングを武器として公民権運動、政治批判、平和運動、環境問題など、積極的に関わった行動家としても、歴史の数ページを飾る勇名を馳せたからである。



もし俺がハンマーを持っていたら(If I Had a Hammer)』1956年、シーガー37歳の時:2分31秒


その生涯のハイライトを、1月28日付け、ニューヨーク・タイムズ紙に掲載されたアルバムを年代順に追って展望してみよう。


チャールス・ルイス・シーガー(Charles Louis Seeger:)の膝に乗る2歳のピート。義母は作曲家のルース・クロフォード(Ruth Crawford:中央)で、夫妻は、アメリカのフォーク音楽を蒐集し、しばしば、野外演奏会を開いた。


1951年、音楽グループ、ウイーヴァーズ(the Weavers)とニューヨークのカフェ・ソサイエティ・ダウンタウン(Cafe Society Downtown)で公演し、フォーク歌手として名が売れてきた頃。シーガーは左から二人目。


1961年、議会を侮辱した罪が問われ訴えられた。妻のトシ(日系米人)と共に、ニューヨークの連邦裁判所へ出頭。


1963年、ミシシッピー州グリーンウッド(Greenwood)で、学生無暴力協調委員会(Student Nonviolent Coordinating Committee)の運動仲間に参加し、ラリーで唱うシーガー


1965年、ニュージャージー州ニューウォーク市(Newark)、モスク・シアター(the Mosque Theater)でのシーガー。彼が愛用した楽器は12弦ギターと5弦バンジョーで、時世の歌、子供の歌、冗談まじりの歌、真面目な歌など織り交ぜ、常に聴衆に和唱することをを求めた。


シーガーは仲間と組んで、15万ドルの醵金を集め、クリアウォーター(清い水:the Clearwater)と名付けた帆船を建造し、ニューヨークのハドソン川を昇り降りに航行し、バンジョーをかき鳴らしながら、川の汚染に対する抗議運動をした。


1982年、ペンシルヴェニア州ノース・ヴェルサイユ(North Versailles)でユナイテッド電気労働組合員(United Electrical Workers)たちのラリーを激励するシーガー


2009年1月、首都ワシントンで行われたオバマ大統領の就任式中、ブルース・スプリングスティーン(Bruce Springsteen)と、『我らは一丸(We are One)』を合唱。


2009年、マジソン・スクエア・ガーデン(Madison Square Garden)で、シーガーの90歳誕生日を祝うコンサートに出演した人気歌手の面々。左からアーロ・ガスリー(Arlo Guthrie)、ジョアン・バエズ(Joan Baez)、ブルース・スプリングスティーン、パティ・シアルファ(Patti Scialfa)、ピート・シーガー、ディヴ・マシューズ(Dave Matthews)、タオ・ロドリゲツ(Tao Rodriguez)


2010年、ニューヨーク州ビーコンのビーコン帆船クラブ(The Beacon Sloop Club)で演奏するシーガー


シーガー愛用の5弦バンジョー。使い古された面には、この楽器は憎しみを取り囲み、降参を強制する(This machine surrounds hate and forces it to surrender)と円形に書かれた文字が読める。このバンジョーは、2010年、オハイオ州クリーヴランド市(Cleveland)、ロック・アンド・ロック、名声の殿堂と博物館(the Rock and Roll Hall of Fame and Museum)に寄贈された。


2011年10月、シーガー(中央)は、ニューヨークで、ウォール街占領、抗議運動(the Occupy Wall Street movement)に参加し、95丁目のシンフォニー・スペース(Symphony Space)でのコンサートから、59丁目のコロンバス・サークル(Columbus Circle)まで行進した。


シーガーは、生涯を通じて常に楽天的だった。1994年のこと、彼は、「世界の未来へのカギは、楽観的な話題を見付けて人々と分ち合うことだ」と信じていた。

2014年1月28日火曜日

カゼを引くのは怖い

志知 均 (しち・ひとし)
2014年1月

新年早々、当地(ミシガン州)は大寒波の到来で、日中気温マイナス20度C,積雪は20センチ以上あった。シーズン契約で雇っている除雪サービスは午後遅くまで来ないので、車が道路へ出られるように毎朝ドライブウエーの一部を除雪した。それに停電と暖房装置の故障が加わってストレスになり、数年ぶりにカゼ(風邪)を引いてしまった。幸い一週間ほどで全快したが、カゼとはずいぶん曖昧な病名だなと思った。カゼ、すなわち空気が通る気管の病気というのが語源らしい。従ってハナカゼノドカゼインフルエンザ(フルー:Flu)など、呼吸系疾患は全てカゼということになる。

予防ワクチンの接種
最近では『フルー』と『カゼ』をマスコミは区別しているが、一般には混同されている。初期症状としてカゼは熱は出ないが、くしゃみや鼻水が出るのに対し、フルーは鼻水は出ないが発熱することが多い。カゼフルーヴァイラス(virus:日本では、ウイルスとかビールスと発音している)で空中感染するので、発病した人に近寄らないとか、よく手を洗い、うがいをするとか、予防知識は広まっている。この小文ではカゼフルーヴァイラスについて少し詳しく書いてみよう。

フルーとは

フルー・ヴァイラス
まずフルーについて。フルー感染で死亡する人はアメリカで毎年5万人、世界中では50万人といわれ怖い病気である。昨年春、上海で131人が感染し、26人が死亡したフルーヴァイラスA(H7N9)が、1月になってまた活発になったようで警戒されている。また、最近中国へ旅行したカナダ人が、帰国後フルーヴァイラス(H5N1)に感染していることが判り、ニュースになっている。中国暦の元旦は、今年は1月31日で、正月前後の期間に36億人以上の中国人が里帰りなどで移動するそうだから、これらのヴァイラス種によるフルー流行が始まったら大変なことになる。(中国旅行は控えたほうがよさそうだ!)

   ここでフルーヴァイラスの命名について簡単に説明しておく。フルーヴァイラスAは、単鎖RNAが遺伝子で、8つの遺伝子グループに分けられている。グループ4は、感染に主役を果たす赤血球凝集タンパク質(hemagglutinin, HA)の遺伝子を、またグループ6は、多糖類加水分解酵素(neuraminidase, NA)の遺伝子を含んでいる。HANAも、ヴァイラス表面に存在し抗原性を示す。現在までにHAで16個、NAで9個の抗原性の違うものが見つかっており、それに基づいて多数の変種ヴァイラス(H1N1H5N1など)が命名されている。例えばH5N1は、HA遺伝子の5の領域と、NA遺伝子の1の領域に変異があることを示す。

   フルーヴァイラス感染は、HAが呼吸系気管細胞の表面にある受容体(シアル酸、sialic acid)に結合することから始まる。HAは更に細胞内粒子体(endosome)ヴァイラスを融合させ、ヴァイラスRNAが細胞内へ取り込まれるのを助ける。一方、NAについては、細胞表面粘膜にはシアル酸が大量存在するので、それにヴァイラスが絡み取られて動けなくならないよう、NAシアル酸を分解する。

   過去のフルー流行として、1913年のH1N1(スペイン風邪、Spanish flu)、1957年のH2N2(アジア風邪、Asian flu)、1968年のH3N2(ホンコン風邪、Hong Kong flu)、2009年メキシコから世界中に広がったH1N1などがある。これで、H1N1が1913年から100年近くたってぶり返したことが注目され、冷凍保存されていた1913年流行のH1N1と、2009年流行のH1N1が全く同一かどうか最近比較された。その結果、同一ではないが極めて類似していることが判った。HANAの変異は構造のあちこちでおき、抗原性を変えた新種になる。そのため人は抵抗性を失う。1913年のH1N1に対して抵抗性をもった人は2009年には殆ど死亡しているから、同じような構造に変異したH1N1新種に対して人は抵抗性がない。このように回帰的に変異するのは進化するためのヴァイラスの『知恵』であろうか?

スペイン風邪のヴァイラス
  フルーヴァイラスAは、ブタ、イヌ、ニワトリ、ヒトなど、多種の動物から分離されているが、元々、トリが主要なヴァイラス源と考えられている。トリだけが感染すると思われた変種が、人にも感染するようになるのは、HANA遺伝子の変異で、感染力だけでなく種特異性も変わるからである。

カゼとは

次にカゼの話に移ろう。カゼヴァイラスの正しい名称は鼻カゼヴァイラス(rhinovirus)である。このヴァイラスはヒト固有のヴァイラスで、フルーヴァイラスのように、他の種の動物から由来したものではない。元々、腸管に感染(寄生?)していたヴァイラス(enterovirus)が変異、進化してできた。そのため性質が似ている。(今度のカゼは鼻や喉ではなくオナカにきたと思うことがあるが、それはenterovirusのせいである。)

   カゼヴァイラスは、僅か10個のRNA遺伝子をもつヴァイラスで、遺伝子の数が少ないので、増殖できる環境は、鼻や喉の上皮細胞に限られる。遺伝子が一つでも変異すると、ヴァイラスとして一巻の終わりになることが多いから、フルーヴァイラスに比べて病原性は弱い。それでも抗原性の異なる変種が100ぐらい存在する。(大別すると、HRV-AHRV-B,  HRV-C の3種類)

   主要変種であるHRV-Aヴァイラスの大部分は、鼻、喉の上皮細胞表面にあるICAM-1と呼ばれる受容体に結合して、細胞内へ侵入し、増殖する。厄介なことにICAM-1受容体は、免疫食細胞(macrophage)表面にも存在し、ヴァイラスはそれに結合して、免疫抑制を引き起こす。即ち,抗体生成や記憶細胞の増殖を阻害する。同じカゼヴァイラスに繰り返し感染したり、カゼにかかって手当をしないと、フルーその他のヴァイラスや肺炎菌に感染し易くなるのは、このような免疫抑制のせいである。

   治療については、効果は完全でないにしろ、フルーヴァイラスのワクチンは毎年作られ予防接種に使われているが、鼻カゼワクチンは開発されていない。その理由の一つは感染しても早めに休養を充分とり、売薬その他で手当てすれば全治するからである。

その他、悪性ヴァイラスについて

SARS患者のレントゲン写真
この小文では詳しく触れないが、2003年に中国、香港から、ヴェトナム、カナダ、シンガポール、タイ、インドネシア、フィリピンと広がって8,000人以上が感染し、2,800人近くの人々が死亡したSARS(severe acute respiratory syndrome)のことを覚えておられる方もあろう。病原体はコロナ・ヴァイラス(coronavirus, 右下の写真:形が光環に似ていることで命名)で、
コロナ・ヴァイラス
フルーヴァイラスとは異なるが、呼吸系疾患を起こすことや、元々、コウモリが保有していたヴァイラスが変異してヒトへの感染性を獲得したことなど、フルーヴァイラスに似ている。広い意味でカゼヴァイラスである。


  このような予想もしない悪性ヴァイラスの流行は今後も起きることが十分予想される。カゼぐらいと軽く考え、仕事の無理をしたり、飲酒、喫煙も止めない人は、啄木の詩、「そんならば命が欲しくないのかと、医者に言われて黙りし心」をじっくり味わってほしい。カゼは万病の元と言われるくらい怖いのだから.

2014年1月25日土曜日

マグロ、クジラ、イルカ、の受難

マグロ、クジラ、イルカ、に関する限り、日本は国際的な反逆児の役割を演じている。今回は、マグロ、クジラ論議はしばらく棚上げにし、イルカに焦点を当てる。

3年半前、2010年6月に遡って本ブログの一部から抽出。

問題は『ザ、コーヴ(『ある入り江』The Cove)』なるアカデミー賞を受けたドキュメンタリー映画が日本に輸入され、それを上映するかどうかで大騒ぎになった。その『ザ、コーヴ』を簡単に叙述すると:和歌山県太地(たいぢ)町で400年続いた伝統となっているイルカ漁の実態を克明に追う。捕獲された中からショー用のイルカを除き、あとは食用に供される。またイルカ肉をクジラ肉と偽って密売される商習慣があり、その上、肉からは2000 ppmという高値の水銀が検出されている、といった内容である。

[『ザ、コーヴ』日本向けの予告編を再上映:18分54秒]

あれ以来、イルカ漁の是非論が聞こえなくなったが、問題が忘れ去られたわけではない。2014年の昨今、イルカの殺戮と保護の狭間に立って、問題が再燃したのである。

キャロライン・ケネディ大使
再燃の起こりは、新しく日本に派遣されたキャロライン・ケネディ大使(Caroline Kennedy)が社交サイトのツイッター(Twitter)を通じて、「太地町で伝統となっているイルカ漁は非人道(inhumaneness) 性であるから、それによって日本が国際的な信頼を失うことを懸念している」という意味のメッセージを公開したことから始まる。それが1月18日(土曜)で、翌週の火曜1月21日菅義偉(すが・よしひで)官房長官が、「イルカ漁は我が国の伝統ですから、、、」と反論し、太地町のイルカ殺戮を弁護した。

時を移さず(アメリカ時間で20日)、ニューヨーク・タイムズ紙、ロサンゼルス・タイムズ紙を始め、全米大手のマスコミが、日本の非国際性、保護動物への残虐性、そしてそれを弁護した日本政府の対応を報道した。一方、日本のマスコミが、どのように報道しているかが気になって探したが、それらしい記事は全く見当たらなかった。私の見落としかも知れないと思っていたら、昨24日付けで小さな記事が発表された。

一刻を争う報道機関が、海外で報道された後、3日間も取り上げなかったのは何故であろう。それは、ケネディ大使の発言を過小評価していたからか、以前『ザ、コーヴ』の上映を巡って起きた暴力を含む反対運動を恐れ保留していた、としか考えられない。

イルカ漁を擁護する側の根拠は:
1. 日本の法律に抵触しない伝統だから。
2. 牛肉や豚肉は食用に供していながらイルカ肉を食してなぜ悪い。
といったことを盾に取っているようだ。

この反論では、イルカ保護団体を納得させることはできない。のみならず、菅官房長官「合法的かつ日本文化の伝統」としてイルカ漁を弁護した応答は、和歌山県の一漁村の入り江で『部外者立ち入り禁止』までして秘密裡に処理されている行事を、日本文化の代表的な伝統としたことは失言ではなかろうか。大方の日本人は、『ザ、コーヴの上映以前に、イルカ漁のことは全く知らなかったし、イルカ肉を食べた経験はなかったであろう。世界の人達に日本の食文化を誤解させる失言に他ならない。

私は菜食に転向し、最近牛肉や豚肉は食べていないから、この問題の圏外だが、明らかなことは、牛や豚は食用として生産されている一方、イルカは、マグロやクジラと同様、自然繁殖だから乱獲を避けて保護しなければならない。従って、牛や豚とイルカを同列に対比することは苦し紛れの開き直りである。

結論として、2010年に公開した本ブログと同様な趣旨を繰り返す。先ず、キャロライン・ケネディ大使が提起した発言の意図を理解する寛大さがあって欲しい。大使は、賛否両論に耳を傾け、討論をして正しい解答を引き出したい、という意向なのだ。

確かに我々は、些かのの罪悪感を感ずることもなく牛肉、豚肉、トリ肉、魚肉を食べている。しかしその反面、イルカを食べない理由を考えてみる必要があろう。先ずイルカは、マグロ、クジラ同様、保護なしでは絶滅の恐れがある生物であること。次に水銀の含有量が異常に高いことで人体に危険がないという保証が全くないこと。

そして最後に、イルカは、世界中の人々から愛されている知能指数の高い人なつっこい動物であることを忘れてはならない。伝統だからとか「法律に違反していないから」に固執せず、新しい時代に順応し、世界の日本人として保護派に転向するだけの柔軟性を持っても良いのではなかろうか。高橋 経

2014年1月22日水曜日

老衰で死亡した17歳の青年サム

マーガリット・フォックス(Margalit Fox)報告
2014年1月13日、NYTの記事から抜粋



サム・バーンズ(Sampson Gordon Berns)が去る10日に死亡した。サムはマサチューセッツ州のフォックスボロー高校(the Foxborough High School)の生徒で、生まれながら奇病プロジェリア(progeria:早老症)の重荷を背負って育った。

父親のスコット・バーンズ医師
サム・バーンズは、1996年10月23日、 ロ−ドアイランド州プロヴィデンス市(Providence, R.I.)で生まれた。早老症の診断が下されたのは彼が2歳の誕生日を迎える直前だった。当時、早老症に関する資料は殆ど未開の分野だったので皆無、サムの父親、医師スコット・バーンズ(Dr. Scott Berns)は、妻の妹、オードリー・ゴードン(Audrey Gordon)と共に調査機関を設立し発足した。2007年、ある種の治療薬を発見し、試験的にプロジェリア細胞に適用したところ、或る程度の効果はあったようだが実用にはほど遠かった。

普通の人の細胞(左)とサムの細胞
早老症とは、言葉通り、育つ過程で体内の細胞が急速に老化する遺伝性の奇病(稀病)で、 病名はハッチンソン・ギルフォード、プロジェリア症候群(Hutchinson-Gilford progeria syndrome, HGPS, Progeria syndrome) だが、略称『プロジェリア症』で通っている、400万人ないし800万人に一人という稀な病いである。症状は毛髪の脱落、加速的な細胞の老化、関節の不調、心臓病とかで、およそ13歳前後で心臓マヒか卒中で死亡している。

母親のレスリー・ゴードン医師と。
2003年、サムの母親レスリー・ゴードン(Dr. Leslie Gordon)を含む前述の調査機関チームが、プロジェリアの遺伝子を隔離することに成功したが、その治療法はまだ発見されていない。サムにとって幸せだったのは、母親が早老症を専門的に調べ始めただけでなく、父親スコット・バーンズも医師であったことである。


サムの若い生命の闘争を記録したドキュメンタリー映画、『サムの人生観(Life According to Sam);2012年』は、昨年のアカデミー賞候補に上ったこともあり、目下HBOを通じて公開中、その内容はニューヨーク・タイムズの週刊誌が取り上げ、また『TEDxコンファランス(TEDx Conference)(下掲のビデオ)という地域社会団体がサムを講師に招いたりしたので、サムの名とその奇病人生について広く一般が注目するようになった。

『サムの人生観』ビデオ
サムの人生観』はサムが13歳の時から撮り始め、その後3年間の成長過程を追跡記録したものだ。その撮影に先立ち、サムは映画制作者たちに条件を提唱した。曰く、僕は自分の全てを大衆の前にさらけ出すわけですが、僕は皆さんに同情の目で見られたくありません。僕を気の毒だと思う必要は全くないのです。なぜって、僕はみんなに、これが『僕』なんだ、という僕の(ありのままの)人生を知ってもらいたいからです。」

小柄で、度の強い眼鏡をかけたサムは、何事をするにも熱心に情熱を傾けた。それは、数学や科学であり、コミック本であり、スカウト活動(Eagle Scout)であり、高校バンドのドラム奏者であった。『TEDx』の講演では(下掲のビデオ)、高校でマーチング・バンドのドラム奏者ぶりを見せる。普通のドラム(18キロ)では、体重22.7キロしかないサムには重過ぎるので、両親が技術者に注文し、軽量で携帯可能な特製のドラム(2.7キロ)を作らせた。サムの晴れ晴れとした行進ぶりをご覧いただきたい。

サムの寿命が迫ってきた時期、彼は大学へ進学して遺伝学や細胞の勉強をするつもりだった。サムは、「どんな道へ進むにしても、僕は世の中の為になるようなことをしたい。それが何であれ、達成できたら僕はとても幸せになる」と目を輝かせていた。


上掲ビデオの焦点(サム)の、幸せ人生への信条;YouTube より:12分45秒

1. どんなに努力してもできないことがあったら、それは気にしないこと。だって、他にたくさんできることがあるんだもの。
2. 身近かに、付き添っていてもらいたい人々が周りにいてくれること。
3. 前向きに進むこと。
4. できるだけ、パーティに欠席しないこと。(会場から笑い)

そして結論として;

「僕の人生はとっても幸せです」

2014年1月18日土曜日

元日本兵、数奇な生涯

小野田少尉、戦後の戦い

その人の名は小野田寛郎(おのだ・ひろお)、大正11年(1922)和歌山県海南で生まれた。旧制中学を卒業し、ある貿易会社の中国支店で勤務していた。昭和17年(1942)、20才になったところで大日本帝国陸軍に徴兵され、選ばれて陸軍中野学校で情報作戦の訓練を受けた。日本は既にその前年、アメリカを敵として戦っていた。

徴兵された新兵の整列

南太平洋の諸島を制覇していた日本軍は、アメリカの攻撃に耐え切れず、ガダルカナル島を始めとし、駐屯していた島々は敗退の一途をたどっていた。昭和19年(1944)、アメリカ軍のフィリッピン侵攻を守るべく、小野田が属する部隊はフィリッピン群島中の小島、ルバング島(Lubang)に派遣された。その島は、フィリッピンの首都マニラ市から120キロ程南西に当たる位置にあった。小野田の任務は、アメリカ軍の動静を監視して報告することだった。

その数ヶ月後、広島、長崎への原爆投下に続いて日本は、無条件でアメリカを始め連合軍に降伏した。

しかし小野田少尉を含め、隊内で4名は日本の敗戦が信じられず、潜伏して抗戦を続ける覚悟を決めた。他の3名は、赤津上等兵、島田伍長、小塚二等兵らであった。この4名が如何にして生存したかの詳細は、別の機会に譲るとして、森林に隠れ、夜陰に乗じて近隣の農場から作物などを盗むかして食いつないでいたようだ。その間、土地の住民に見つかり、『敵』と思い込み何人か射殺するという事件も起こした。しかし、赤津上等兵と島田伍長のどちらかはフィリッピン軍に投降し、他の一人は昭和29年(1954)に射殺され、小塚二等兵は昭和47年(1972)にこれまた射殺され、小野田少尉だけが生き残った。

独りになった小野田は、頑なに山中の森林に潜み、上司からの指令を待ち続けていた。一方、フィリッピン軍や政府は、拡声器で呼びかけたり、投降を勧告する文書を散布したが小野田は頑強に応じなかった。ここで特筆に値いする事実は、小野田が受けた諜報員教育では、大多数の日本兵が行った無謀な自殺的突撃は禁止され、できる限り生存することを旨としていたことである。

小野田のライフルを持つ鈴木(左)と小野田
昭和49年(1974)、鈴木紀夫(すずき・のりお)という大学を中退し世界旅行をしていた若い男性が、小野田少尉の話に強い関心をもち接触を試み、その努力の甲斐あって、同年2月20日、小野田は鈴木を信頼して面接に応じた。応答を重ねる毎に二人の間には徐々に友情が生まれ、鈴木小野田の心情を理解した。一旦帰国した鈴木は政府に要請し、小野田の元上官だった谷口少佐を探し出して事情を説明し、小野田の実兄(弟?)トシロウも加わり、最終的に小野田寛郎少尉谷口の『降伏命令』を遵守し、フィリッピン政府に投降した。その時点で、小野田は所有していたライフル、500発の銃弾、数個の手榴弾を放棄提出した。

大統領に軍刀を献上する小野田
また、その他に所持していた軍刀は、当時のフィリッピン大統領フェルディナンド・マルコス(Ferdinand Marcos)に降伏の意思表示として献上した。かくして日本が降伏した昭和20年(1945)から昭和49年まで、小野田寛郎少尉の29年余りに及ぶ『戦後の単独戦争』に終止符が打たれたのである。

帰国した小野田は、報道陣に囲まれ、その異常な体験は『軍人の鑑(かがみ)、命令に忠実だった英雄』として祭り上げられた。また、その15年遡る年に、自分が『戦死』と記載されていたことを知った。その時小野田は、涙を流し声を上げて慟哭したという。
20才の新兵小野田と、32年後 投降した52才の小野田
戦後の目覚ましい復興を見聞し驚いた小野田は、潜伏中の時とは違う意味で『日本の敗戦』が信じられなかった。それでも生活が慣れるに従い、自分の生存を記録した『たった一人の30年戦争(英訳本の題名 “No Surrender: My Thirty-Year War” )』という自伝を書いた。その出版の後ブラジルに移り、牧場の経営にたずさわり、間もなく結婚した。

ルバング島を訪れた小野田
平成8年(1996)、小野田はルバング島を再訪問し、公式に住民たちに謝罪と感謝の気持ちを伝え、地方の学校に1万ドル寄付した。当時の知事ジョセフィン・ラミレツ・サトー(Josephine Ramirez Satõ)は公式の席上で、「この地方の住民は、あなたのした行為(住民を殺傷した)は理解し、とっくに許しています。小野田さんを通じて日本との友好関係が良くなりますよう」と述べた。とはいうものの、まだ多くのフィリッピン人達は戦争中、日本軍隊が汚名を残した暴虐を忘れてはいない。

特に、小野田に射殺された現地人たちの内、一人の男の妹、クリスチナ・エヴァンジェリスタ(Christina Evangelista)は、未だに恨みに思っている。(以上、高橋経著『A Passage Through SEVEN LIVES: The Pacific War Legacy』の『戦後の章』から抜粋)


英雄の死
[1月17日付け、毎日新聞の記事から] 旧日本軍の陸軍少尉として派遣されたフィリピン・ルバング島の山中で戦後も昭和49年(1974)まで約29年潜伏した小野田寛郎さんが、東京都内の病院で16日に亡くなった。91歳だった。葬儀は近親者で営む。自宅は中央区佃1の10の5。
(中略)
自宅前で取材に応じた親族によると、年末にブラジルを訪問して帰国後、体調を崩して今月6日に入院。病床でも「3月に講演の予定があるので、やらなくては」などと前向きに語っていたという。
戦争の犠牲者たちは、、、
編集後記
小野田寛郎が単独抗戦で、29年余りに及び森林中に潜伏し、生き延びた話を見聞する度に、わが身に置き換えて考え、私の胸は痛む。20才で徴兵され、32年間兵役に就き、52才で武装を解除して帰国した、という半生を考えただけでも、一人の人生が社会人として成長する大切な時期を喪失したということは大変な犠牲である。
小野田と似たような体験をサイパン島で28年間独りで生存した横井庄一(よこい・しょういち:平成9年、82才で死亡)についても同じ思いがする。
彼らは「何のために」青年期や壮年期を空しく喪失してしまったのだろうか。それは「国のため、天皇のため」の愛国心、忠誠、、、言い換えれば。『天皇』を含む『国』が起こした『戦争』に『自己を犠牲にした』のである。こうした人達を『軍神』と崇め、『英雄』として讃えることに敢えて反対はしないが、同時に湧いてくる割り切れない『何か』が禁じられない。
◆ 戦争で犠牲になったのは、上記の二人や戦死した何百万人もの軍人だけではない。
◆ サイパン島で、敗北の恐怖から逃れるため、崖から身を投げて自殺した何千人という老若男女の民間人たちのことは忘れられない。
◆ 沖縄で、多数の民間人が殺され、百人余りの女子学生『ひめゆり部隊』が、これも敗北の恥辱を避けるため刺し違えて命を断ったことも忘れられない。
◆ 日本列島中、大小都市の数々が空襲で家を焼かれ、何百万人もの身を焼かれた市民のことも忘れることはできない。
◆ 広島と長崎に落された原爆で、一瞬にして消滅した何十万人という被爆者や、生存者たちが苦しんだ後遺症のことも忘れられない。
◆ 戦争が終わっても帰国できずに満州その他の僻地に取り残され、帰国する術を失った人々のことも忘れられない。
『戦争』は罪悪の中でも最悪の人災だ。
皮肉にも、敗戦のお蔭で生まれた新日本新憲法に謳われた『日本は永遠に戦争を放棄する』という一条が光り輝いている希望だ。これこそ、命を懸けても守り抜かねばなるまい。
高橋 経

2014年1月16日木曜日

酔いどれ大国

一昨日の月曜、1月13日、我が国産ウイスキーの大手サントリー社が、ケンタッキー州クラーモント(Clermont)に本拠があるビーム社(Beam, Inc.)を約1兆4,200億円で買収すると発表した。これは醸造会社の買収では史上最高額の取引きである。これでサントリー社は、世界で第3位の大醸造企業にのし上がることになる。


ケンタッキー州にあるビーム社の小売り店


ジャック・ダニエル各種
過去においてもビーム社は、他の醸造企業から合併の目標にされてきた。競争相手では、ジャック・ダニエルズ(Jack Daniel’s)で知られるブラウン・フォーマン社(Brown-Forman)ビーム社市場を争っていたが、同族会社の強味に固執する意味でも、合併とか買収には興味を示さなかった。

その筋では、イギリスのディアジオ(Diageo)やフランスのペルノッド・リカルド(Pernod Ricard)が、買収によって企業の拡大成長を考慮していたようだが、実行には消極的だった。

サントリーの洋酒各種
業界では既に独走態勢にあったサントリー社は、この買収が完了した暁には、銘柄バーボン、ジム・ビームのみならず、高級酒ベィカーズ(Baker’s)ノブ・クリーク(Knob Creek)商標のバーボン酒、ラフローグ(Laphroaig)ティーチャーズ(Teacher’s)商標のスコッチ酒、そしてクーヴォイジエ(Courvoisier)のコニャックなどが加わり、高級洋酒の全てが取り揃うることになる。

以上がサントリー社ビーム社買収のあらましだが、ここで幾つかの疑問が生じる。

すわ、日本企業のアメリカ侵略?

アメリカは目下、失業問題で悩んでいる。オバマが初めて大統領に就任した2009年には最悪9%前後の失業率を記録していた。あれから5年、どうやら回復の兆しが見えてきたが、まだ7%前後の人々が仕事を探し求めている。主な原因は、大小企業が生産を、中国、インドを始めとして賃金の安い外国の労働力を利用しているためである。

ジム・ビーム
全国ネットワークのABCテレビ局では、『メイド・イン・アメリカ』を謳ったキャンペーンを流し、国内労働力による雇用促進を呼びかけている。サントリー社によるビーム社買収のニュースが発表されたその日、このキャンペーンが先ず反応したのは、ビーム社の従業員が失業するのではないか、という憂慮だった。だが同社の業務は従来通りに推進され、ム・ビームは依然として『メイド・イン・アメリカ』であることが判り、胸をなで下ろした、という一幕があった。


ビーム社の創業は1795年に遡る。スコッチ、ウイスキーと似たような酒だが、原料にトウモロコシを使っているという違いから、バーボンと名付けられた。1920年代前後の禁酒時代を経てバーボンは『アメリカ製品』として誇る酒となった。買収されても引き続き『アメリカ製品』であることで胸をなで下ろしたまではよかったが、ビーム社が最早アメリカの企業ではなく、日本の企業になってしまうことに、アメリカ人の心の中で『違和感』が生じていることは間違いない。

巨大企業、野望の限界

サントリー社だけに限らない。過去何十年という間、あらゆる業界が吸収、合併、買収を繰り返し、中企業は大企業に、大企業は巨大企業に膨れ上がり、小企業は吸収されるか、消滅していった。自動車産業しかり、金融業界しかり、その他全ての業界は、弱肉強食が習いとなった。経営陣は利潤追求が第一の急務であると心得、株式のダウ平均は世間の不況をよそに記録を更新し続けている。企業が利潤を上げると、巨額の報酬が経営陣の功績として給付され、株主もその分け前を享受することになる。この傾向は停まることを知らず、彼らの欲望の限界は全く計り知れない。

1920年、酒樽のウイスキーを捨てさせる官憲
サントリー社の場合はどうなのだろう。サントリー社は、日本で功なり名を遂げ、確固とした基盤を樹立した大企業である。同社がアメリカの誇る企業を買収しなければならない理由はあったのだろうか。あるとすれば、あらゆる銘柄を取り揃える、という名分であろうが、あまり説得力はない。

毎日新聞の『余録』子は、「、、、聞けば米国では近年バーボンなどの人気が若者らの間で復活、蒸留酒の売り上げは10年前より6割以上増えたという。また中国など新興国でのブランド蒸留酒の需要が高まり、輸出も右肩上がりが続いている。つまり今、世界の市場では蒸留酒が売れ筋なのだそうな▲巨額買収費用もこの流れに乗って一挙に酒類世界大手の地位を固めるには高くないというわけか。世界を舞台にした堂々たる『サンシャイン』に期待しよう」と楽観的かつ希望的な観測で結んでいたが、いささか気になる。

酒は涙か、ため息か

「酒が不幸を生む」という風刺マンガ
あえて『禁酒』を叫ぶつもりは毛頭ないが、酒の弊害は無視できない。健康上の弊害、飲酒による家族内の不和、酔っぱらい運転による人身事故、妄想を起こす精神上の弊害、などなど、数え上げたらキリがない。「酒は百薬の長」と言ったのは酒呑みがでっち上げた『言い訳』だとしか思えない。酒がなくとも人生を愉しむことができるのだから。

アメリカの食品医薬品局(Food and Drugs Administration: FDA)は、1970年代あたりから酒、タバコのテレビ広告を全面的に禁止した。官庁、公共の乗り物、レストランなどでの禁煙はかなり徹底したが、禁酒は前例の失敗を繰り返さぬべく法制化されていない。

だが、アメリカでの禁酒運動の歴史は長い。1826年に牧師ライマン・ビーチャー(Rev. Lyman Beecher)「飲酒は悪魔」と説教したのに始まり、1851年にはメイン州で禁酒法が一時期だが制定され、婦人団体の反対運動などを経て、1919年10月28日全国的に禁酒法が設定されたが、それから14年後、1933年12月5日をもって解禁になってしまった。


禁酒法時代、地下で飲酒を楽しむ人々:解禁の日
皮肉なことに禁酒法時代、人々は禁酒するどころか、官憲の目を逃れ、地下に潜って華々しく飲酒を謳歌していたのである。更に不都合だったのは、この違法行為がギャング達の莫大な収入源になっていたことだ。要するに飲酒の習慣を法律で禁止することはできなかったのである。

レストラン経営で、最も利潤が大きいのが『飲み物』の提供である。これはチップの多寡で収入が左右されるウエーターやウエイトレス達の懐にも反映してくる。彼らが『飲み物』を勧めるゆえんである。コップの水を注文しても差し支えないし、それが無料であることもご承知おきいただきたい。

願わくば、サントリー社の野望が全人類をアルコール中毒にする意図から発したものではないことを実証して頂きたい。


編集: 高橋 経

2014年1月14日火曜日

死神の肖像:いろいろ

今は昔の語り草、元日、一休(いっきゅう)禅師が杖の上に頭蓋骨(通称『ドクロ』、又は『サレコウベ』)を付け、村の家々を祈祷し歩いた。いずれの家でも、一休の杖に付いたドクロを認めた途端、不快感を隠せなかった。それは予期していたこと、一休はすかさず、「元日は、冥土(めいど)へ旅の一里塚(いちりづか)、めでたくもあり、めでたくもなし」と一句を読み、人々に浮かれ過ぎないよう警告を発した、という逸話が残っている。

この話は、今回の話題『死神の肖像』に、読者が「正月早々縁起でもない」とアレルギーを起こさないよう、編集者として気を遣っているのだと思し召しください。編集:高橋 経
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死神の肖像、いろいろ
ヒラリー・イルケイ(Hilary Ilkay)
ラファムの季刊(Lapham's Quarterly)2014年1月4日号から抜粋




イングマー・バーグマン(Ingmar Bargman)創作、1957年の映画『第七の印章(直訳 The Seventh Seal)』に、黒い頭巾で蒼白、無表情な顔面を包み、身には風にはためく黒衣をまとった死神が登場する。その不気味な容姿に出逢い、「お前は何者だ?」と詰問する騎士アントニアス・ブロック(Antonius Block)の運命に、観客は一様に『死』の暗示を予感する。二人の間で、『死』に僅かな執行猶予期間を与える合意が成立するのだが、その経緯の描写は知的で実存主義的、ウイットがあり騎士の心中に起こった動揺を微妙に表現していた。
バーグマンは、この場面を形成するに当たり、アルベルタス・ピクター(Albertus Pictor)が15世紀に描いた壁画からインスピレーションを受けていた。スエーデンのタビィ教会(Taby Church)に遺っているその壁画は、一人の男が骸骨の死神とチェスの対決をしている情景を描いたものである。


古代社会では、『死』は、しばしば黄泉の国(よみのくに:つまり、あの世)を司る帝王という形で擬人化されていた。エジプトの神オシリス(Osiris)は皇帝の神聖な範例で、死後また復活すると信じられていた。この場合、オシリスは『死神』であった。(ミイラ、その他の叙述は省略)



他の文明社会では、伝統的に女性が『死神』を象徴していた。中世ヨーロッパで蔓延した黒死病その他の病厄は、何百万人という人命を奪った。この絵は、1890年頃、エヴェリン・ド・モルガン(Evelyn de Morgan)描く『死の天使(The Angel of Death)』。(14世紀フランスのフレスコの記事省略)


セオドール・セヴェリン・キッテルセン(Theodor Severin Kittelsen)描く『ペスタ、1(Pesta 1)』1904年頃。キッテルセンは、スカンジナビアにおける疫病の擬人化を試みている。ペスタとは、疫病と死を象徴する醜い腰の曲った老婆である。


19世紀から20世紀の初頭にかけて、過去の習慣から引き続き画家達は『死神』を女性で象徴させてきた。このベルギーの版画家、フェリシアン・ロプス(Félicien Rops)描く『人間パロディ(The Human Parody):1878年頃』では、束の間の女性美の表面を捉えている。近づく男性の欲情をそそる魅惑的な女性は、美貌の仮面の裏側に骸骨を潜ませている。これこそ人間性のパロディで、我々の煩悩を露呈する外面というワナを象徴している。


その20年余り後、1901年から1902年にかけて、画家で文筆家のアルフレッド・クバン(Alfred Kubin)が、ペン画で『死神』の正体を暴こうと試みている。この『最良の医者(The Best Doctor)』と題した作品では、気味の悪い性別不明、長髪、筋骨質の腕が伸び、平たい胸のくせに黒衣の曲線は女性的な体型を誇張している。こうした容姿は『薬』を象徴し、薬の力に頼ることによって救われると思い込ませ『最良の医者』ではなかった『死神』が、瀕死の患者の目を閉ざすと同時に、顔を圧迫し、窒息死に陥しいれてしまう。


それと対照的に、カルロス・シュワブ(Carlos Scwabe)が描いた『墓堀り人夫の死(Death of the Gravedigger):1895年頃』に描かれた死の天使は、神秘的で優雅な容姿の内にダイナミックな女神像の尊厳さを持たせ、弧を描く翼は、自身と墓堀り人夫とを共に包容する。こうして、死につつある人夫に、平穏な最期の素晴らしい夢を抱かせているのである。


異論はあるだろうが、古今を通じて骸骨は『死神』の最も一般的な象徴として認められてきた。ハンス・ホルバイン(Hans Holbein)の「死神の踊り(The Dance of Death)」の連作から『貴婦人(The Noble Lady):1532年頃』。この木版画は、その代表的な作品の一つであろう。「踊り」は多分に教訓的な意味合いをもっている。つまり、男女貴賎の如何を問わず、『死』は誰もが避けられない運命にある。


その他、死に関してよく取り上げられる話題に、『処女の死(Death of the Maiden)』とか、それに関連した『死神の接吻(Kiss of Death)』がある。この絵は前者の、ハンス・ボルダング(Hans Baldung)作の『処女の死:1517年』である。この作品では、血色の悪い(当然のことながら)屍体が処女の背後に絡み付き、豊満な肌に流れる髪の毛を掴んでたくし上げ、顔を向ければ、骨張った唇とキスをする羽目になり兼ねない瞬間を描いている。(エドワード・ムンチ:Edward Munchの作例は省略)

       
典型的な『死神』の肖像は、骸骨が黒衣をまとい、頭巾の奥深く「サレコウベの顔」は殆ど見えない。孤を描く長い刃のある草刈り鎌を持っているのが特長であるが、この作例では敢えて見せていない。

装飾的な画風で知られるガスタフ・クリムト(Gustav Klimt)が描いた『死と生(Death and Life: 1910年)』では、『死神』が草刈り鎌を構えて、「生」を象徴する一塊の人々を、いつ何時(なんどき)でも「刈りとる」体勢にある。あたかも、ヨーロッパ中にコレラが蔓延していた時代であった。


典型的な『死神』の草刈り鎌のイメージは、西欧諸国では依然として受け継がれ、落書きにも見られる。1850年代に流行したロンドンの風刺マンガに刺激され、落書きで悪名を流したバンクシー(Banksy)と名乗る「町の絵描き」は、イギリスのブリストル港(Bristol)に停泊していた船の側壁に、スプレー缶絵の具で「草刈り鎌を持った死神」を描いた。強いて題名を付けるなら『モノ言わぬ警備員(The Silent Highwayman)』としておく。不正な社会現象を「刈り取る」べく、バンクシーができた抗議行動の一端であろうか。

(この論説の締めくくりに、筆者はバーグマンの創作上の思想を書いているが省略)